まあやっぱり、あれだけ被害者がいるのに自分はのうのうとしているわけにもいかないというわけだ。
自分の人生を振り返ってみても今まで色々な人の助けを借りながら生きてきたということは事実だし、迷惑もかけてきた。そういったことを省みると、やっぱり社会に少しでも役に立てるような行動を起こすことはごく自然なことかな、と思い込んで納得している。正直言って、特に誰かに褒められたいとか認められたいとか、そういう下心めいた気持ちもあったことは確かだ。だが、そういった下心がいけないことだと誰が決められようか。
キレイゴトを言うなという意見も出てきそうだが、まあそれはそれで結構だと思う。人それぞれものの捉え方、考え方は違う。ただ私は、ひがみを言うだけで何もしない人間には憧れない。
私は常々、善意だけでなく実際の行動が伴ってはじめて人の役に立てるのではないかと思っている。先程の献血の件に限らず、何でもそうだ。
たとえば電車で席を譲るのも、「譲った方が良いかなぁ…でもなんか照れ臭いしなぁ」とか、結局自分の脳みその中だけで完結していては、それは真の意味での善意とは言えない。相手にとってみれば、同情してくれている人も無関心な人も見分けがつかないからだ。もちろんそういった善意の気持ちを持つことは、無関心でいるよりもずっと素晴らしいことだし、原動力となり得るという意味で重要なステップだ。
だが惜しい。そこまで思うことができたなら、あとはほんの少しの勇気で口と体を動かして実行に移してみるべきだ。
ただ事実として、この2ステップ目は難しい。じつは私もまだまだ躊躇することが多いのだ。時々、この一連の流れを自然にこなしてのける人を見かけるが、思うに、ああいった人は恐らく信念が強いか、自分に厳しい人なのだろう。しかしそれは何も特別なことではない。誰にでも、気持ちのもちよう次第でできることだ。もっといえば、脳みそのごく一部分の働き次第ということになる。そう考えれば何もたいそうなことではない。
繰り返しになるが、善意の気持ち・感謝の気持ちを持つだけでは相手に何も伝わらない。伝えたいと思うなら、手をさしのべたり「ありがとう」を言ったり、カタチにした方が良い。無関心な仏顔より、道を譲ってくれる閻魔顔の方が断然良い。
押し付けるつもりで書いたはずではなかったのに、なんだか説教臭くなってしまったのでさっさと今回の日記を終わる。
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